崇仁親王妃百合子(たかひとしんのうひ ゆりこ)さまは2024年11月15日薨去され101歳の生涯を閉じられました。
心よりご冥福を申し上げます。
崇仁親王妃百合子さまは現上皇さまの叔母にあたり、83年と長きにわたり日本の皇室を支え続けられました。
100歳で亡くなられた崇仁親王との間には5人もの子宝に恵まれ、ほとんど女手一つで育てられた強かな方でした。
この記事では、大正、昭和、平成、令和と激動の時代を生き抜かれた、崇仁親王妃百合子さまについて詳しく解説します。
崇仁親王妃百合子さまについて
ここでは、崇仁親王妃百合子さまについて簡単にご紹介します。
基本情報
崇仁親王妃百合子さま
- 身位:親王妃
- 生年月日:1923年6月4日
- 薨去:2024年11月15日(満101歳没)
- 配偶者:三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)
- 旧姓:高木百合子
- 続柄:高木正得の次女
- 出身:東京都
- 学歴:現 学習院女子中・高等科
- お印:桐
- ご結婚:1941年10月22日
皇族のシンボルマークでもある百合子さまのお印は、桐(きり)です。
桐は、薄紫色の上品なお花を咲かせる広葉樹であり、五百円玉のモチーフにも使われています。
桐のお花には、古来より神聖な植物として取り扱われてきました
原産地の中国では、伝説の鳥である鳳凰が羽を休める木と言われております。
百合子さまのイメージにぴったりですね。
経歴
- 1923年(大正12年)6月4日:東京府東京市赤坂区高樹町(現:東京都港区南青山)の高木子爵邸にて華族令嬢として誕生。
- 1928年(昭和3年)4月:女子学習院幼稚園に入園。
- 1931年(昭和6年)4月:女子学習院本科に入学。
- 1941年(昭和16年)10月22日:三笠宮崇仁親王と成婚。同日付で宝冠大綬章(勲一等宝冠章)を受章。
- 1944年(昭和19年)4月:甯子内親王を出産。
- 1945年(昭和20年)5月:宮邸の青山東御殿(東京市赤坂区)が空襲で全焼。防空壕舎や神奈川県葉山町一色の住宅を御仮寓所に。
- 1946年(昭和21年)1月:寬仁親王を出産。
- 1947年(昭和22年):東京都品川区上大崎長者丸の邸宅を宮家が取得し、以後13年間御仮寓所とする。
- 1948年(昭和23年)2月:宜仁親王(桂宮)を出産。
- 1948年(昭和23年)11月:実父・高木正得元子爵が自死。
- 1951年(昭和26年)10月:容子内親王を出産。
- 1954年(昭和29年)12月:憲仁親王(高円宮)を出産。
- 1956年(昭和31年)8~10月:セイロン建国2500年記念祭典参列のため、三笠宮とともに戦後初の海外訪問(イラン、イラク立ち寄り)。
- 1970年(昭和45年)11月:東京都港区の赤坂御用地に新築された三笠宮邸へ移居。
- 1989年(平成元年)5月:旧皇族・旧朝鮮王族李方子の葬儀に参列のため三笠宮と大韓民国訪問。
- 2002年(平成14年)11月:憲仁親王(高円宮)、心不全により薨去。
- 2012年(平成24年)6月:寬仁親王、多臓器不全により薨去。
- 2014年(平成26年)6月:宜仁親王(桂宮)、急性心不全により薨去。
- 2016年(平成28年)10月:夫・三笠宮崇仁親王、心不全により100歳で薨去。葬儀で喪主を務める。
- 2024年(令和6年)11月15日:聖路加国際病院にて101歳で薨去。
崇仁親王妃百合子さまの激動な人生について
ご出身・生い立ち
崇仁親王妃百合子さまは、元から皇族の方であったわけではありません。
当時の身分で貴族にあたる華族のご令嬢から、ご縁があって皇室に入居されました。
1923年6月4日にご誕生
崇仁親王妃百合子さまは、1923年6月4日に現在の東京都港区にてご誕生されました。
姉が1人と妹が2人の4人姉妹で、百合子さまは次女にあたります。
1923年といえば、9月に関東大震災が発生しました。
関東大震災とは、関東地方南部をマグニチュード7.9の大地震が襲った災害です。
ちょうどお昼時であったため、多くの家屋で家事が発生しました。百合子さまは6月に誕生されたので、生後3ヶ月で大地震や火災を経験されていることになります。
ご出身は華族の高木家
崇仁親王妃百合子さまの出身は、当時華族であった高木家です。
そのため、旧名は高木百合子さまとなります。
高木家とは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を代々支えてきた武家です。
父親の高木正得(たかぎまさなり)さんは昆虫学者としても有名でした。
母親の邦子さんは明治時代から昭和にかけて活躍した貴族院議員の入江為守(いりえためもり)さんの次女です。
百合子さまは、皇室の妃として申し分ないお家柄をお持ちでした。
崇仁親王妃百合子さまの学歴は?
崇仁親王妃百合子さまは、学習院女子中・高等科を卒業されています。
高等科卒業後すぐにご結婚されたため、大学には進学されていません。
1941年に崇仁親王とご結婚
崇仁親王妃百合子さまは、学習院女子高等科を卒業されてすぐに崇仁親王さまとご結婚されました。
崇仁親王さまが24歳、百合子さまが18歳の時です。当時、崇仁親王さまは陸軍大学校の学生でした。
崇仁親王さまは1943年1月から翌1944年1月まで、単身で南京へと赴任されています。
百合子さまは皇族となられ、間もない状態で留守を任されました。
華族の出身とはいえ、慣れない皇族としての生活には、大変なご苦労をされたと思います。
1944年4月26日、第一子で長女である甯子内親王さまをご出産されました。
1945年3月10日、子育てに大変な中、東京大空襲によって住まいは全焼し、疎開することになりました。
1946年1月5日、疎開先の葉山で第二子で長男である寬仁親王さまをご出産されました。
三笠宮家は新しく創設された宮家であり、さらに家が全焼してしまうという追い討ちで、経済的な苦労は今の皇族では考えられないほどに大きかったことが想像できます。
家の周りにはトマト・きゅうり・イモといったお野菜を必死に育て懸命に食料を確保されたそうです。
そのような中お二人で手を取り合い、支え合ってきたのですから、強い絆で結ばれていたのだと思います。
ご結婚70年の際のコメントでは、お互いに感謝し合う姿が垣間見れました。
2016年、崇仁親王は皇族の中でも最高齢の齢100で亡くなられています。百合子さまは車椅子での生活になっても、命日には欠かさずお墓参りをされていました。
三笠宮崇仁親王さまについて
三笠宮崇仁親王さま
- 身位:親王
- 生年月日:1915年12月2日
- 薨去:2016年10月27日(満100歳没)
- 配偶者:崇仁親王妃百合子
- 学歴:陸軍士官学校
- お印:若杉
- ご結婚:1941年10月22日
三笠宮崇仁親王(みかさのみやたかひとしんのう)さまは、大正天皇陛下と貞明皇后さまの第四皇子であり、昭和天皇陛下の弟にあたります。
学習院初等科・中等科を経て、1936年に陸軍士官学校を卒業し、陸軍軍人としての道を歩みました。
第二次世界大戦中は、南京の支那派遣軍総司令部で参謀を務め、戦後は古代オリエント史の研究者として活躍されました。
1941年10月22日、子爵高木正得の次女である百合子さまと結婚し、三男二女をもうけました。
崇仁親王さまは、戦後に古代オリエント史の研究に従事し、東京女子大学などで教鞭を執りました。
また、日本レクリエーション協会の総裁として、フォークダンスの普及や全国レクリエーション大会の開催にも尽力されました。
2016年10月27日、100歳で薨去なされました。
その生涯は、軍人、学者、そして皇族として多岐にわたる活動で彩られています。
崇仁親王妃百合子さまの子女は?
崇仁親王妃百合子さまは、崇仁親王さまとの間に三男二女の5人の子宝に恵まれました。
ここでは、百合子さまの子女をおひとりずつご紹介しましょう。
近衛甯子さん
近衛甯子(このえやすこ)さん
- 生年月日:1944年4月26日
- 配偶者:近衞忠煇(このえただてる)
- 旧身位:甯子内親王
- 続柄:三笠宮崇仁親王の長女
- 学歴:学習院大学
- ご結婚:1966年12月18日
近衛甯子さんは、学習院大学に在学している中で日本赤十字社職員の近衞忠煇さんと結婚し、その後学習院大学を卒業しました。
その後、近衞忠煇さんは日本赤十字社の社長、近衛甯子さんは名誉副総裁になっています。
1970年7月18日に近衛忠大(このえただひろ)さんをご出産されました。
寬仁親王さま
寬仁親王(ともひとしんのう)さま
- 身位:親王
- 生年月日:1946年1月5日
- 薨去:2012年6月6日(満66歳没)
- 配偶者:寬仁親王妃信子(旧姓:麻生信子)
- 続柄:三笠宮崇仁親王の長男
- 学歴:学習院大学
- お印:柏
- ご結婚:1980年11月7日
寬仁親王さまは「ヒゲ殿下」の愛称で親しまれていた方です。
1982年に「皇籍離脱発言」をするなど。波瀾万丈な人生を送られており、それを赤裸々に語る様子が度々話題となった皇族です。
テレビ番組の出演もよくしており、現在も続く「徹子の部屋」に出演されたこともあります。
妻は元首相である麻生太郎さんの妹の信子(のぶこ)さまです。
お二人の間には彬子(あきこ)女王さま・瑶子(ようこ)女王さまが誕生しました。
1990年代になるとガンやアルコール依存症といった様々な病気に悩まさられ、2012年6月6日に66歳という若さで、薨去なされました。
宜仁親王さま
宜仁親王(よしひとしんのう)さま
- 身位:親王
- 生年月日:1948年2月11日
- 薨去:2014年6月8日(満66歳没)
- 続柄:三笠宮崇仁親王の次男
- 学歴:学習院大学
- お印:桂
宜仁親王さまは、桂宮家を創設し、独自の生計を立てて生活されたことで有名です。
学習院初等科時代に、同級生から心無い言葉をかけられたのがきっかけで、公の場へ出ること控えるよになりました。
1988年1月1日に、昭和天皇陛下から「桂宮」の称号を与えられ2月20日新たに桂宮家を創設されましたが、その3ヶ月後には、ベッドの脇で倒れているのを官家職員が発見し病院へ搬送されました。
正確には公表されていませんが、急性硬膜下血腫だと推察されています。
3ヶ月間意識が戻らない状態でしたが、全身麻痺・右目の視力喪失・記憶障害といった後遺症を抱えつつも半年後には公務に復帰しました。
その後も度々病気を患い、手術や入退院を繰り返し、2014年6月8日に66歳という若さで、薨去なされました。
千容子さん
千容子(せんまさこ)さん
- 生年月日:1951年10月23日
- 配偶者:千宗室(せんそうせつ)
- 旧身位:容子内親王
- 続柄:三笠宮崇仁親王の次女
- 学歴:学習院大学
- ご結婚:1983年10月14日
千容子さんは、語学堪能で外国交際の際には重宝されるほどであったといいますが、留学時代は自由奔放な様子に百合子さまが連れ戻しにいったこともあるほどだったそうです。
1983年10月14日には茶道裏千家第16代家元の千宗室さんと結婚し、皇籍離脱しています。
結婚後は茶道の勉強を熱心にされ、第16代の夫人として茶道法人の要職につくほどになりました。
千宗室さんとの婚約を発表した同年には、容子さまの留学時代に親密な関係にあった男性が来日し「容子さんと結婚させてほしい」と申し入れる大騒動があったことも有名です。
結果的に事態は悪化せずに終息し、二男一女の子宝に恵まれました。
憲仁親王さま
憲仁親王(のりひとしんのう)さま
- 身位:親王
- 生年月日:1954年12月29日
- 薨去:2002年11月21日(満47歳没)
- 配偶者:憲仁親王妃久子(旧姓:鳥取久子)
- 続柄:三笠宮崇仁親王の三男
- 学歴:学習院大学
- お印:柊
- ご結婚:1984年12月6日
憲仁親王さまは、サッカー・ホッケー・スキーなど様々なスポーツをしてきた経験があり、スポーツ振興や国際交流に尽くしてきたことで有名です。
妻の久子さまとはカナダ大使館におけるパーティーで出会い、その後婚約と同時に三笠宮家の分家として高円宮家を創設しました。
お二人の間には、承子(つぐこ)女王さま・千家典子(せんげのりこ)さん・守谷絢子(もりやあやこ)さんが誕生しました。
2002年11月21日、カナダ大使館にてスカッシュの練習を行っていた最中に心室細動による心不全で倒れられました。
直ちに慶應義塾大学病院に搬送されるも、既に心肺停止の状態であり、蘇生措置がとられ一時は心拍が確認されるも、夜半になって容態が悪化。
久子さまの同意を得て人工心肺装置を取り外したところ、生命反応がなく、47歳という若さで薨去なされました。
まとめ
今回のは崇仁親王妃百合子さまの激動の人生について紹介しました。
若い時は災害や戦争でご苦労され、その後も3人のお子様に先立たれるなど、大変な思いをされてきたにも関わらず、83年と長きにわたり日本の皇室を支え続けられました。
そのお姿には、誰しも尊敬の念を抱いてしまうのではないでしょうか。
2024年11月15日薨去されたのは残念でなりませんが、心よりご冥福を申し上げます。
今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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