【画像】【田中一村】「新美の巨人たち」で紹介された、近年評価が高まり続けている画家の作品と経歴についてまとめました

田中一村は、奄美大島の亜熱帯の動植物を独自の画風で描きましたが、無名のまま69歳で亡くなりました。

しかし近年、田中一村の評価が高まり続けており、現在では2024年11月23日にテレビ東京系列で放送された「新美の巨人たち」で特集を組まれたり、東京都美術館で大回顧展が開かれるほどになりました。

なぜ田中一村のは近年になって評価されるようになったのでしょうか?

この記事では、田中一村について近年評価が高まり続けている作品を経歴も踏まえて書いております。

目次

田中一村について

田中一村は、栃木県栃木市にて木彫家の父田中稲邨の長男として生まれ、東京都で育ちました。

中央画壇とは一線を画し、1958年千葉市での活動の後、50歳で奄美大島に単身移住。

奄美の自然を愛し、亜熱帯の植物や鳥を鋭い観察と画力で力強くも繊細な花鳥画に描き、独特の世界を作り上げました。

プロフィール

田中一村の画像です

田中一村

  • 本名:田中孝 
  • 生年月日:1908年7月22日 
  • 命日:1977年9月11日(満69歳没)
  • 出身:栃木県
  • 学歴:現 東京芸術大学中退

経歴

  • 1908年 栃木県栃木市に6人兄弟の長男として生まれる。父は彫刻家の田中彌吉。
    若くして水墨画に才能を発揮し「神童」と呼ばれる。
  • 1915年 7歳の時には児童画展で受賞。父濔吉より「米邨(べいそん)」の号を与えられる。
  • 1920年 「米邨」の落款で描いた「枝垂れ桜に四十雀」の図が、ローマ〜東京間の長距離飛行を達成したイタリア人飛行士に贈られた書画集に載る。
  • 1926年 東京市港区の芝中学校を卒業する。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学。しかし、学校の指導方針への不満や父の病気などが原因で同年6月に中退。
  • 1931年 それまで描いていた水墨画と訣別。自らの心のままに描いた日本画『蕗の薹とメダカの図』は後援者には受け入れられなかった。
  • 1938年 親戚の川村幾三を頼って、千葉県の千葉寺町に移る。
  • 1947年 『白い花』が第19回青龍社展に入選。この時、初めて「田中一村」と名乗る。
  • 1948年 第20回青龍社展に「秋晴」「」を出品。このうち「」は入選するが、「秋晴」の落選に納得できず、「波」の入選を辞退
  • 1953年 第9回日展に、「秋林」を出品するが落選。この年の12月25日、太平洋戦争敗戦後に米国統治下だった奄美大島が日本に返還される。
  • 1954年 第10回日展に「」を出品するが落選。
  • 1958年 第43回院展に「岩戸村」「」を出品するが落選。中央画壇への絶望を深め、奄美行きを決意、12月13日奄美大島の名瀬港に到着。
  • 1959年 国立療養所奄美和光園の官舎に移り込み、小笠原医師との共同生活を始める。
  • 1960年 5月28日、千葉に一時帰郷する。翌年まで、岡田藤助の計らいで国立千葉療養所の所長官舎にアトリエと住居を与えられる。
  • 1961年 3月31日、見合いをするが、のちに自ら破談とした。4月22日、所長官舎を引き上げ、奄美に戻る。12月、名瀬市有屋の一戸建て借家に移り、農業を始める。
  • 1962年 名瀬市大熊にある 大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き始める。
  • 1967年 5年間働いた紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念する。
  • 1970年 再び紬工場で働き始める。2年働いて個展の費用を捻出しようとしたが、結局個展の開催は実現せず、最後まで中央画壇に認められないままだった。
  • 1972年 紬工場を辞め、3年間絵画制作に専念するが、腰痛や眩暈などで三度も昏倒する。
  • 1976年 6月下旬、畑仕事中に脳卒中で倒れ、一週間入院。その後、名瀬市の老人福祉会館に通いリハビリテーションに励む。
  • 1977年 9月1日、和光園近くの畑の中の一軒家に移り、「御殿」と称する。同月11日、夕食の準備中に心不全で倒れ、死去。(満69歳没)

主な作品例

ここでは田中一村の作品を年代別に紹介していきます。

東京時代(1908年〜1937年)

田中一村の作品です
菊図 1915年 紙本墨画淡彩

田中一村7歳の時の作品です。「米邨」の印も捺されています。
その下の部分の紙は欠損しています。
理由は、父が筆を入れたことが気に入らず、自身で破り取ったからだそうです。

ミヤカツ

7歳で、こんな絵が描けるなんて天才としか言いようがありませんね!!
父の筆入れが気に入らず破り取ってしまうなんて、当時から美への追求心が凄かったんだと思います。

田中一村の作品です
蘭竹図・富貴図衝立 1929年 絹本金地墨画
田中一村の作品です
椿図屏風 1931年 絹本金地着色

千葉時代(1938年〜1957年)

田中一村の作品です
白い花 1947年 紙本砂子地着色

1947年、第19回青龍展に初入選した作品で、結果的に公募展に入選した唯一の作品となりました。
画号を「米邨」から「柳一村」としていることから、心機一転の意欲作だと言えます。

田中一村の作品です
秋晴 1948年 紙本金地着色
田中一村の作品です
千葉寺 春 1953年〜1954年頃 絹本着色
田中一村の作品です
ずしの花 1955年 絹本着色
田中一村の作品です
忍冬に尾長 1956年頃 絹本着色

奄美大島時代(1958年〜1977年)

田中一村の作品です
奄美の海に蘇鉄とアダン 1961年 絹本墨画着色
田中一村の作品です
初夏の海赤翡翠 1962年頃 絹本墨画着色
田中一村の作品です
アダンの海辺 1969年 絹本着色
田中一村の作品です
不喰芋と蘇鐵 1973年以前 絹本着色

1974年1月の書簡に「閻魔大王への土産品」だと記した田中一村の代表作が「アダンの海辺」と「不喰芋と蘇鐵」です。
生涯を賭して何の悔いもない制作を成し得た満足と自負が表れている田中一村魂の絵画だと言えます。

田中一村の作品です
榕樹に虎みゝづく 1973年以前 絹本墨画着色
田中一村の作品です
枇榔樹 の森 1973年以前 絹本墨画着色
田中一村の作品です
海老と熱帯魚 1976年以前 絹本着色

まとめ

今回は2024年11月2日にテレビ東京系列で放送された「新美の巨人たち」で紹介された、近年評価が高まり続けている日本画家田中一村について書きました。

没後にNHKの「日曜美術館 黒潮の画譜~異端の画家・田中一村」(1984年12月16日放映)や「南日本新聞」に連載された「アダンの画帖~田中一村伝」でその独特の画風が注目を集め、全国巡回展が開催されるようになり、一躍脚光を浴びるようになりました。

南を目指したことから、「日本のゴーギャン」などと呼ばれることもあります。

2001年に奄美大島の奄美市「奄美パーク」の一角に「田中一村記念美術館」がオープンしました。

皆さんも機会がありましたら、田中一村の展覧会に行ってみてください。

今回も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

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